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2025.06.17

「転職はスタートライン」転職決定で終わらないご支援を追求していきたい [菅原 晴香(すがわら はるか)]

「転職はスタートライン」転職決定で終わらないご支援を追求していきたい [菅原 晴香(すがわら はるか)]

「真ん中っ子の私」が育んだ、バランス感覚と自立心

学びたいことが見えなかった18歳の私が選んだ道

上京と「好き」が見つかった瞬間

壁にぶつかっても、自分を信じて挑戦し続けた日々

自分の「心の声」と、ビジョンへの共感で決めた次の一歩

「人と深く向き合う」難しさと、そこにある本質的なやりがい

エイトシークエンスのコンサルタントは、キャリアプランをじっくりとお聞かせいただき、充実感と納得感のあるキャリアの選択をサポートしています。このシリーズでは、コンサルタントの自己紹介と共に、キャリアの考えやモットーなどをお話します。実際に話してみたいコンサルタントがおりましたら、こちらよりお問い合わせください。
今回のインタビューは、菅原 晴香(すがわら はるか)です。

「真ん中っ子の私」が育んだ、バランス感覚と自立心

私は宮城県仙台市に生まれ、父、母、そして6人兄弟のちょうど真ん中っ子として育ちました。上には7歳と6歳上の姉、3歳上の兄がいて、下には7歳と10歳下の弟がいます。

小さい頃から家族や親戚に囲まれ、週末は従姉妹家族も集まり大人数でご飯を食べるのが恒例。
いつも周りには人がいて、会話や笑い声の絶えない、そんな賑やかな環境で育ちました。自然と私自身も、おしゃべりで人懐っこい性格になっていったと思います。

ただ、兄弟の中では“真ん中っ子”というポジションもあって、子どもながらに常に全体を俯瞰しながら動いていたような気がします。
姉たちはいわゆる陽キャタイプ、兄はクラスの中心にいるような目立つ存在、弟は大人しい感じで全員、性格が違う兄弟でした。
私はそんな個性豊かな兄弟に囲まれて、いつも家族の間を取り持ったり、空気を読んでバランスを取ったり。自然と家族のなかで「バランサー」としての役割を担うようになっていきました。

また、母は、よくある“優しいお母さん”というよりは、どちらかというと厳しく、筋の通った人でした。
小さな頃から「子どもだから」「女の子だから」「姉だから」といった枠にはめることを嫌い、一人の“人”として接してくれる人でした。

たとえば、幼稚園までは髪の毛を結んでくれていたのに、小学校に上がると「結びたいなら自分で結びなさい。できなかったら、やらなければいい」と。小学校で流行っていたおもちゃを欲しいとねだった時にも「みんなが持ってるから欲しいの?それとも、あなた自身が本当に欲しいと思ってるの?」といつも自分の内側と向き合わせるような問いかけをする母でした。

「あなたはどうしたいの?」
「やりたいなら、自分の力でやってごらん」

そんな母の言葉の一つひとつが、私の中に「自立」と「責任感」を育ててくれたと思います。子ども扱いされることがほとんどなく、常に“対等な一人の人間”として接してもらっていた——そんな感覚が、今の私の価値観の土台になっている気がします。

学びたいことが見えなかった18歳の私が選んだ道

そんな私も高校を卒業し「進路選択」という、大きな岐路に立ちました。
大学に進学するか、それとも就職するか。当時の私は、自分が本気で学びたいことや、熱量を持って取り組めるテーマをどうしても見つけられずにいました。

「結局、学んだ先で働くなら、まずは働いてみて、その中で本当に学びたいことが見つかったら、自分で稼いだお金で大学に行けばいい」
そう考えた私は、“まず働く”という選択をしました。そして、最も給与が高かったアミューズメント業界の接客職に就職を決めたのです。

最初に配属されたのは、宮城県内でもトップクラスの売上を誇る繁忙店。
厳しい環境でしたが、新人育成のカリキュラムをスムーズにクリアできたことで、数ヶ月後には新店舗立ち上げメンバーとして異動するチャンスをいただきました。仕事は順調で、周囲からの評価も上々。「このまま頑張れば、管理職や幹部としての道も開けるかもしれない」——そんな未来も見えていました。

でも、ある日ふと、心のどこかが引っかかりました。

「この先結婚して、子どもができて母親になったとしても、キャリアは諦めたくない。選択肢を増やして自分自身が選んで生きていける人生にしたい」

そんな強い思いを持っていた私は、立ち止まって自分に問いかけました。

——私はこの仕事を一生の仕事にしたいと思っている?
——この仕事を通じて、私は何を社会に提供できている?

そう自問したとき、胸の奥に残ったのは、“ワクワクしていない自分”の存在でした。

やりがいがないわけではない。でも、「このままここで幹部になっていく未来」は、自分自身に直観で「違う」と告げていました。

その気づきが、私の背中を押しました。

退職を決意し、貯めたお金を握りしめて、新しいチャレンジのために上京。行き先は、当時姉が住んでいた関東でした。ここで、もう一度自分の人生を見つめ直そうと心に誓い、新たな一歩を踏み出しました。

上京と「好き」が見つかった瞬間

上京後、まず頭に浮かんだのは「とにかく興味が湧いたら、働いてみよう」という思いでした。ちょうど姉が湘南に住んでいたこともあり、生活の拠点を湘南に置くことに。そして、偶然見つけた求人で、湘南テラスモールにある「ル・クルーゼ」の接客スタッフとして働き始めました。

正直なところ、就業当初は「ル・クルーゼって見たことあるな、カラフルな食器」くらいの認識しかありませんでした。でも、いざ店頭に立ってみると、毎日が本当に新鮮で楽しくて、気づけばどんどんこの世界にのめり込んでいく自分がいました。

「こんなにもたくさんのファンに愛されているブランドなんだ」
「お皿ひとつで、食卓の気分がガラッと変わるんだ」

そう感じるたびに、自分が手に取ってご提案しているものが、お客様の暮らしを豊かにしているんだ、と実感できて、それが純粋に嬉しくて仕方ありませんでした。知れば知るほど魅力的な商品とブランドの世界。働けば働くほど愛着が湧き、気がつけば私はル・クルーゼも、お客様も、そしてこの仕事そのものも、心から好きになっていました。

不思議なもので、「好き」という気持ちが高まれば高まるほど、自然と売上も伸びていきました。そして、その売上がきちんと会社への貢献になっていることも、私にとっては大きなやりがいでした。

しかし、そんな充実した日々の中で、ひとつ大きな壁にぶつかりました。

派遣社員から正社員に切り替わるタイミングで、基本給が大きく下がってしまったのです。最初は「ブランドが好きだから」と貯金を切り崩して生活をしていましたが、次第にこれは現実的に長くは続けられないな、と感じるようになり苦渋の決断ではありましたが、転職を決意しました。

壁にぶつかっても、自分を信じて挑戦し続けた日々

ル・クルーゼを退職する事を決意した私は「まずは早く次の仕事を見つけたい」という思いで転職サイトに登録しました。初めての本格的な転職活動。その中で最初にスカウトをもらったのが、エン・ジャパンでした。

自己分析を進めていく中で気づいたのは「転職は、自分自身を“売り込む”こと」ということ。でも当時の私は、自分のことを明確に語れる自信がありませんでした。これまでは有形商材、つまり“目に見えるもの”を売ってきたけれど、「形のないものを売る営業」って一体どういうことなんだろう? そう思ったとき、「もし無形商材も売れるようになれば、自分の価値や思いも、ちゃんと伝えられるようになるかもしれない」と直感的に思い、未経験から無形商材の営業に挑戦できるエン・ジャパンへ入社を決めました。

入社後は契約社員の“1期生”として、派遣サイトを運営する部署へ配属されました。新規開拓が主なミッションで、毎日100件以上のテレアポを繰り返す日々。しかし、周囲の同期たちが次々に成果を出すなかで、私は3ヶ月経っても全く受注できず……。苦しい時期が続きました。

「こんなにやっても成果が出ないなんて、私には無理だったんだ」
「あと1ヶ月で結果が出なかったら、もう辞めよう」

そう思い詰めていた月末。奇跡のように、提案していた企業様から掲載のご連絡をいただき、初の受注が決まったのです。(実はその日、上司との1on1で“退職します”と伝えるつもりだったんです。笑)

この一件をきっかけに、流れが一気に変わりました。翌月以降は新規社数も売上もすべてのKPIを連続達成。右肩上がりで成果を出せるようになり、チャレンジリーダーに挑戦したり、ついには部署内で初めての契約社員から正社員に昇格する声がかかり、大手企業を担当するチームへ異動しました。

しかし当時私はまだ22歳。訪問する大手企業のお客様からは「この子、本当に大丈夫なの?」という目で見られることもしばしば。

「歳は今すぐには変えられない。でも、翌月には少しでも成長した自分でまたお客様に会いに来よう」と心に決め、ひとつひとつの提案に真摯に向き合い、丁寧に準備を重ね、知識を身につけ、お客様との信頼関係を築いていきました。気がつけば、お客様の方から相談をいただけることも増え、成果もぐんぐんと伸びていきました。

一番成果が出た時期には、チームのリーダーにも抜擢され、社長賞を受賞しました。かつてどん底だった私が、ここまで成長できたのは、自分の“できるかも”を信じて挑戦し続けたからだと思います。

そんな最中、2人目の出産を経て復職したとき、待っていたのは以前とはまったく違う組織の姿でした。

これまでの「私たちが業界を変えていこう」「私たちにしかできない価値を届けよう」という攻めの姿勢はすっかり鳴りをひそめ、組織はとても保守的に変化していました。

私にとって仕事とは、ただの労働ではなく「社会をよりよくすることにつながるもの」。提供するサービスを通して、誰かの暮らしや人生が少しでも豊かになる。そんな世界観に強く惹かれ、やりがいを感じていたからこそ、私のやりたい事はこの場所ではないと感じました。
時代や環境の変化に左右されず、もっと自分らしく働きたい。そんな想いから、再び転職を決意しました。

自分の「心の声」と、ビジョンへの共感で決めた次の一歩

再びの転職を考えたとき、私は改めて自分の心の声に耳を傾けました。

これまでの経験を通して気づいたのは「企業が掲げるビジョンに、心から共感できるかどうか」が、私にとって何よりも大切な軸ということでした。
そんな時に出会ったのが、エイトシークエンスです。
ビジョンである「らしさによる自然体の幸せの実現」という言葉に、心が大きく動かされたのを覚えています。

正直に言うと、最初はその言葉の抽象度に戸惑いもありました。
「“らしさ”って一体なんだろう?」
「環境や状況によって、自分の“らしさ”なんて変わるんじゃないか?」

でも、だからこそ気づいたんです。

どんな状態にあっても、自分を認めてあげられるような生き方こそが、本当の幸せなのかもしれない。
「今のあなたで大丈夫だよ」と言ってくれているような感覚でした。

自分自身が“らしさ”を許容しながら生きられる社会を、仕事を通じて広めていきたい。
「らしさによる自然体の幸せの実現」というビジョンを社会に届けていくことは、すごく素敵なことだなと思えたからこそ、入社を決めました。

「人と深く向き合う」難しさと、そこにある本質的なやりがい

これまでの人生を振り返ってみると、私はいつも母をはじめ、誰かに「どう思う?」と問いかけられてきました。
だからこそ、自分の中に答えを持っていることが多く、自然と「正解」を探してしまう癖があったように思います。

でも、エイトシークエンスに入社して気づいたのは、答えはひとつじゃない。自分が予測できる、分かることは、ほんの一部でしかないということ。
「分かったふり」をしていた自分が実はたくさんいたんだと実感しました。

エイトシークエンスの人材紹介は、人の心を丁寧に取り扱い、深く対話し続けることが求められます。
その分、難易度はとても高いと感じていますが、企業様も候補者様にもどこまでいっても分かった気にならず、深く理解をしていくことに毎日とてもやり甲斐を感じています。

転職というものは、やろうと思えば一人でも進められるプロセスです。
でも、自身が介在することで、候補者様の視野が広がったり、気づきが生まれたり、期待を超えるような支援ができたと感じられたとき、心からこの仕事をしていて良かったと思えます。

今後は、コンサルタントとして「ご縁をつなぐ」ことにとどまらず、入社後の活躍支援ができるようなサービスの開発にもチャレンジしたいと考えています。
転職はゴールではなく、新しいスタートです。
だからこそ、転職後も候補者様の“らしさ”が活きる活躍を応援し続けたい。企業様にとっても、その方とのご縁が本当の意味で価値のある出会いだったとなるよう深く理解していきたいと思っています。

エイトシークエンスで、「転職先決定で終わらない、本質的なご支援」をこれからも追求していきたいです。

(インタビュー/記事:エイトシークエンス大岩)

菅原 晴香(すがわら はるか)
接客・販売職を経て、2015年に求職者向けの情報サイトなどを展開する大手人材企業へ入社。派遣会社をメイン顧客とし、採用戦略の立案からスタッフの定着、事業成長までを支援しました。大手から中小企業まで幅広い業界の企業を担当し、2019年には社長賞ベストチームリーダー賞を受賞。2度の産休育休を経て自身のキャリアと向き合う中で、当社の「“らしさ”による、自然体な幸せの実現」という理念に共感し、入社を決意。求職者の“らしさ”を引き出し、企業と求職者の出会いを繋ぐことを仕事にしたいと邁進しております。

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